(2005年各種案内)
妊娠中・授乳中のインフルエンザ対策について(2005年12月)
現在の知見と合致しないので、混乱を防ぐために本文を削除します。
(2009年10月)
理念と現実の齟齬(2005年11月)
人間生活に於いてその人なり団体なりが信ずる理念と実際に営まれている現実との間に齟齬がきたされるのはやむを得ません。現実は矛盾が複雑にからみあい、観念的に正しいことが葬り去られることがしばしばあります。人生において要領の良い生き方は、正邪については理念に従い、実際の対応は現実的に行うことでしょう。
ここで最近、私が興味を感じているのはキリスト教についてです。私はキリスト教に深い敬意を抱いています。欧米人の考え方、行動、文学や音楽、映画にいたるまで、キリスト教に対する教養無しでは理解できない部分があります。少し勉強してみて、この分野でも自分があまりにも無知であることに気づきましたが、今からでも知らないよりは知る方が良いでしょう。旧約聖書や新約聖書の解釈も多岐に渡ります。聖書は誤解を恐れずに言えば矛盾だらけですし、その矛盾を如何に宗教上解釈するかは面白い作業ではあります。それにしても、キリスト教関係の本は著明な神学者のもの、美術書、音楽関係それにマンガ(彼の作品の中では評価が高くないものの手塚作品も含めて)たくさんあります。キリスト教を信仰していない人のものと、カトリックの司教、司祭、プロテスタントの牧師が書かれたものとの落差も楽しめます。特に軟派なイタリア人あたりが宗教上の理念と実際の生活との整合性をどうつけているか、LEONあたりに特集して欲しいものです。
政治の世界でも、理念なき・・・とかよく指摘されますが、政治こそ矛盾が重層的に構造しているので、枝葉の議論は根幹を改善すると必要なくなる場合もあると考えられます。
我が家のマイブームとして、或る質問に対して、「それは正しくもあり、間違いでもある。」と答え、その根拠を述べるというゲームが流行っています。端的に言えば、「物事には例外がある。」ということです。「自分の主張に拘泥するな。」ということでもあります。自己中心的で独善的ではなく、高い矜持を胸に持ちながらも温厚で、誠実で、カルチャーが異なった人や集団とも仲良く出来る人は素晴らしいと思います。
旧制高校の教養主義(2005年10月)
どんなに憧れても、行きたくてもかなわない学校が旧制高校です。もう存在しないからです。芥川龍之介の一高時代のノートが最近発見され、その教養の高さに感嘆させられましたが、芥川でなくても旧制高校生には或る種の素養が備わっていたと考えられます。その教養主義を毛嫌いする人もいるかも知れませんが、知的好奇心から発生したものですから否定されるべきではありません。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」はチャーミングな小説ですが、そこには几帳面な、彼独特の知的好奇心が散見されます。作品を読んで、シューベルトの「ニ長調ピアノ・ソナタ」やベートーヴェンの「大公トリオ」、プラトンの「響宴」や上田
秋成の「雨月物語」、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」などに触れたくなるのは人間として当然の感情です。京大アメリカンフットボール部ギャングスターズの水野監督は、部員が練習する理由は知的好奇心であると語っていました。上達すれば、下手な時には理解できなかった感覚・境地が得られるというのは納得できます。学問やスポーツに限らず、どんな分野でも当てはまる真理です。
旧制高校には今の進学校(中学・高校)や大学には希有か皆無のアトモスフィアが在ったのでしょう。北杜夫の「どくとるマンボー青春期」も旧制高校を知る意味でとても面白いのですが、「三高私説」も興味深く、資料として価値のある、管理人の教養や哲学に触れることができるホームページです。当院の理事長である岡本利彦が書いた、恩師久米先生についての文章もコンテンツに採用してもらっています。
日本医師会のイメージアップ戦略(2005年9月)
日本医師会は「医師会のイメージチェンジ」について、現在協議を行っています。協議に当たっては、技術論と実態を分けて、(1)医師会のイメージについての共通認識(2)その理由(3)広報としての対策面での方法論(4)広報以外の部分(医師会の行動様式や会員の意識)などを議論するとしています。
まず、日医のイメージについては「マスコミの印象は明らかにマイナス」「医師は高収入というイメージが固定している」「開業医の集団とみられがちで、勤務医の代弁者となり得るのか」「日医は実態が見えにくく、遠い存在である」「会員のための活動が利益誘導と取られやすい」などの意見が出たそうです。
およそ、業界団体というものは、その団体に関係しない一般の人々にとって、或る意味胡散臭い、そして当然自分達に利益誘導するものだという印象があります。役人や教師と共に現在最もバッシングを受けやすい医師の業界団体である日本医師会に厳しい目が注がれるのは当然でしょう。それともう一つ、植松治雄会長はあまりマスコミに登場しない方が良いかも知れません。私も時々テレビで彼を拝見しますが、その語り口、話す内容とも爽やかとは言い難い。インターネットの医師掲示板、一般の人の掲示板ともやはりそういう評価が多いです。外観、話し方のイメージの良い医師はいっぱいいるでしょう。医師じゃなくても構いません。そういう人を広報担当者にすべきです。
方法論としては、「マスコミとのコミュニケーションを図る」「社団法人は公益団体であり、社会貢献活動や社会奉仕活動を」「医師の収入については、勤務実態に即した正確なデータを出していくべき」「リピーター医師への規制強化や不正を行った会員の除名等のアピールを」などの意見が出されたそうです。
マスコミとのコミュニケーションについては、「マスコミに対し、その攻撃(=危害)を避けようとするのではなく、平生の基本的な姿勢・認識から変えていくべき」「正しい理念で行動し、医師会としてイニシアチブをもった意見の表明を」「医師会の視点は国民側にあるか」「マスコミの医師会担当は政治部であることを踏まえて考えるべき」「日本の医療制度のあるべき姿を示し、医療政策への提言を」などの“戦略的”意見と、「マスコミ関係者と常に意思疎通を図っておく」「何を発信するか、目的は何かが重要」「情報は中身とタイミング」「だれが、どういうルートで発信するか」などの“戦術的”意見が出されました。
これらは、なかなか正論ですね。是非、マスコミや国民にも彼らなかなか真面目に考えている、良いこと言うと思わせる、風通しの良い日本医師会になるように期待しております。(と無難にまとめてみました。)
顰蹙こそ文学(2005年8月)
高橋源一郎と山田詠美が対談で、「顰蹙こそ文学」と語っていたことに対して、島田雅彦は、「もとより作家は道徳を説くのに最も不向きで、言葉を尽くしてそれらに憑依しもう一つの現実を作り上げるので錬金術師や贋金作りにも喩えられる」と述べています。彼の言う通り、紋切り型の羅列の予定調和は文学的では無い、孤立無援は作家の勲章です。
京大、阪大、東大医学部(2005年7月)
東大、京大、阪大は日本を代表する大学ですが、そのキャラクターには厳然とした差異が認められます。それぞれ東国武士、京のお公家さん、浪速商人に例えられることもあります。
創立年度から言うと長男にあたる東大は周囲からの期待も大きく、毀誉褒貶の対象になりがちでプレッシャーも大変です。「日本一の大学」と自他ともに認め、何とかその責務を果たそうと必死です。
三男坊の阪大は「上二人には負けへん」と日本一どころか世界一の大学を目指すと豪語し、誠にバイタリティーが旺盛ですが、時として突っ走りすぎることもあります。
その点、次男の京大は気楽なものです。「東大ほどプレッシャーはかからないし、阪大ほど頑張らなくても良い」と思っています。「自分のしたいことをする」、という感じでしょうか。但し、ノーベル賞もとるけど(とはいっても医学部出身者でノーベル賞を受賞した日本人はまだいません)、ドロップアウト率が最も高い大学と言えます。
さて、向上心と野心を併せ持つ医学部志望の高校生はどの大学を選択すべきでしょうか。私の答えは「どこでも良いのではないでしょうか」です。研究者や大学人として生きていく場合、ライバルは世界ですから、どこの大学を出たかより、何よりインパクトのあるペーパーをたくさん書き、国際学会においてワンダフルでエレガントなプレゼンテーションをしてサイエンティストゲームを勝ち抜くのみです。分野によっては、日本にいたのでは埒があかないこともあります。
大学は独立行政法人になり、これまで以上に優秀なそして知名度のある人材の奪い合いとなっています。古くは阪大医学部卒の早石修氏は京大医学部長になりました。(阪大教授、東大教授を併任。プロテインキナーゼCを発見した西塚泰美氏(神戸大学学長)、脂肪酸代謝や神経科学で成果をあげた沼正作氏(京大教授)や免疫学の本庶佑氏(京大医学部長)、脳神経科学の中西重忠氏(京大教授)らは早石道場出身。肩書きは当時。)社会学の分野では上野千鶴子氏が京都精華大学助教授から東大教授になりました。ええ加減な自分の大学出身者より、他大学卒のやる気満々の人を大学が大事にするのはいうまでもありません。ハーバードでもエールでもオックスフォードでもケンブリッジでもどこでも実力さえあればgreat
scientistにも教授にもなれます。頑張れ!
医師にヒューマニズムは必要か(2005年6月)
「医師にヒューマニズムは必要か」と尋ねられたら、“of course
YES”と答えましょう。君にそんなこと言われたくない、という声も聞こえますが仕方ありません。佐藤秀峰の「ブラックジャックによろしく」、山田貴敏の「Dr.コトー診療所」、久坂部羊の「破裂」は各大学の医学部生協によく置いてありますが、それぞれ医師とヒューマニズムとの関わりという点で面白いと思います。
さて、岩波新書に後藤正治著の「生体肝移植」という本があります。日本で一番有名な外科医の一人である田中紘一氏を中心とする移植外科チームとレシピエントとドナー、その家族の関わりを描いたノンフィクションものですが、ところどころに含蓄のある部分があります。
現在第二外科教授の山岡義生氏はドナーの肝切除を行う、即ち健康人にメスを入れる時に、生体肝移植が命の贈り物ができる行為であることを認めつつ、人は家族とはいえ他者のために自身を傷つけ、究極、命まで捨てる可能性をもつことを選ぶべきなのか、と躊躇を覚えます。ドナーからは主治医、執刀医の外科医師は勿論のこと、第三者の内科医が「外科医に強要されたのではありませんか」と手術に対するコンセントを得るということです。家族、親戚からの圧迫による自発的でない義務感、一時的な精神の高揚によるものではなく、後悔しませんか、という意味も含まれるのでしょう。
田中氏に対しては、「名誉欲もなければ権力欲もない、あるのはなんとかして患者を助けたいということだけでしょう。」と周りのスタッフは評しています。手術の前日、レシピエントに「がんばってね。僕もがんばるからね。」と声をかけながら、明日、二人の人間の命をこの手で預かりつつ、己のもつ全知識と全技量を投入した手術によって救命せんとする外科医の目に涙が浮かんでいる、というくだりには思わず感情を移入させられます。
医師は目の前の受診者に対して、最善と思われる診察をし、治療をしなければならない。知識が乏しければ、可能な限りの情報を集め、自分の技量や自分の所属する施設の設備が足らなければ、最適な治療を受けられる場所を紹介できなければならない。田中氏のようなスーパーマンでない私のような凡人はちょっと忙しいと仕事をなんとかこなすことにのみ力を注いでしまいがちです。真摯な態度で、節度を持って、キャパシティーを守って、出来る限りの職務を遂行したいものです。
混合診療について(2005年5月)
先日の京大医学部芝蘭会臨床懇話会で厚生労働省の麦谷氏が講演を行いました。
彼は実質的に混合診療問題、診療報酬点数決定などに強い影響を与える人物のひとりであるそうです。自分は木端役人だからといいながら、小泉首相との関係を吹聴する尊大さを垣間見せて、官僚のステレオタイプ的人物のように思えました。(或る種の尊大さや強烈なプライドは官僚には必要なものかも知れません。)
昨年11月に東大・京大・阪大附属病院長が厚労省、中医協ではなく、「規制改革・民間開放推進会議」の宮内氏に提出した「医療保険制度等の規制緩和に関する要望」について、「世間の人々は三大学の病院長が提出した要望書なんてすごいものだと思うかも知れませんが、厚労省の考えた素晴らしいスキームですべて説明のつく簡単なものです。」と彼は喝破していました。「混合診療で医療詐欺社会となるか?」でマスコミに颯爽と登場した福島京大教授、京都府医師会、京都私立病院協会のそれぞれの代表の3人のディスカッションは麦谷氏の強烈な主張の後ではとても退屈なものでした。(同じ意見の3人の議論を設定するあたり、主張の多様性を認める京大らしくないと思いませんか。)
府医理事がもらしたように、すべて厚労省の一人勝ちでしょう。産科など事実上サービス合戦になり、混合診療が随分前から成されてきたように、他科の診療も混合診療になっていくことでしょう。実際、不必要な或いはエビデンスのない検査、治療や予防的検査が現在保険診療で多数行われているのは事実です。国民皆保険、診療報酬制度、フリーアクセスの日本の医療三大原則を守りつつ、保険診療にそぐわない部分は自費にする、(従来もされてきたことですが)エビデンスのある予防的検査は行政の補助などを受けて施行する、エビデンスのないことはやめるなどが必要であると考えられます。
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